熱川の街を見つめ続けた日本仮面歴史館 館長・木村賢史さんが語る、熱川の魅力とは
更新日:2026年8月22日
かつて、伊豆熱川の温泉街には、下駄の音が絶えませんでした。新婚旅行の客、団体の客。人の肩と肩がすれ合うほどの賑わいが、この小さな海辺の町には確かにありました。
その熱川を、生まれた時からずっと見つめてきた人がいます。日本仮面歴史館の館長、木村賢史さん、83歳。町が賑わい、やがて静けさを取り戻していくまでを、誰よりも近くで見守ってきた一人です。

下駄の音が絶えなかった頃
木村さんの記憶のなかの熱川は、とにかく人の多い町でした。
「銀座並みに人がいました。下駄の音が鳴りすぎて、肩がすれ合うぐらい」
昭和の新婚旅行ブーム、次々と流れ込む団体客。来れば何でも売れた——そんな時代だったと振り返ります。木村さんの生家も、温泉街で土産物店を営んでいました。駅を降りれば土産物屋が軒を連ね、旅館の番頭が客を迎えに走る。そんな光景が、当たり前にありました。町のどの店も、その賑わいを分け合っていたのです。
木村さんの祖父は、人力で山を切り拓き、新しい産業を興して、熱川の名を外へと広げていった人です。祖母をモデルにしたと語り継がれるテレビドラマ『細うで繁盛記』もまた、この温泉地の名を全国に届けました。木村家の歩みは、熱川という地の歩みでもあります。
“らしさ”が残る熱川
「その場所が、そのままいてほしいんだけれど」
若い頃、商工会の青年部で各地の観光地を訪ね歩き、都会と変わらない顔になっていく観光地を見るたび、木村さんはそう思ってきたといいます。町というのは、一軒だけが栄えても続かない。みなが同じ方を向き、支え合ってこそ、長く続いていく——長い商いのなかで、木村さんがたどり着いた実感です。
裏を返せばそれは、熱川がまだ、熱川のままでいられているということでもあります。海があり、山があり、湯けむりが立つ。派手さはないけれど、その土地にしかない気配が残っていること。木村さんが大切にしてきたのは、そういう熱川でした。
「熱川の心尽くしや波の音」
木村さんが長く営んできた店の名は、「つくし」といいます。名づけたのは、農業を営んでいた父でした。つくしは酸性の土にも強く、取っても取っても尽きることがありません。その根気にあやかった名前だったといいます。
「取っても取っても、尽きないんですよ」
この名には、もう一つの意味も重なっています。尽きることなく、客に心を尽くす——。かつて店を贔屓にした客が、父に一つの句を贈りました。
「熱川の心尽くしや波の音」
寄せては返す波のように、絶えることのないもてなしを、という願いです。木村さんが受け継いだのは、手仕事の技だけではありません。この土地に流れる、もてなしの心そのものでした。
熱川を歌った歌
熱川という土地は、かつて歌になったこともあります。1940年代後半に“ブルースの女王”と呼ばれた歌手、淡谷のり子が遺した「熱川ブルース」。木村さんが折に触れて耳を傾けてきた歌でもあります。
目に見える景色だけでなく、こうした記憶もまた、熱川という町を形づくっているものの一つです。

町と海が、ひと目で見渡せる場所
その木村さんに、熱川で好きな場所を尋ねると、さくらやまパークの名前が挙がりました。
町並みと海を、ひと目で見渡せる高台です。生まれ育った町のすべてを、静かに見渡せる場所。眼下に広がる町並みと、その先の海。かつての賑わいも、今の静けさも、そこからならひと目に収まります。熱川には、こうした場所がまだいくつも残っています。
あちこちで湯けむりを上げる温泉櫓、バナナワニ園、海を望む浜辺、七福神をめぐる小径。地図を片手にゆっくりと歩けば、かつての賑わいの記憶が、今もそこかしこに息づいていることに気づきます。
これから熱川を歩く方へ
「自分の足、自分の目、自分の心、自分の感覚でもって、熱川温泉の良いところを味わっていただきたい。」そう木村さんは話します。
下駄の音が聞こえた頃の熱川は、確かに今も、この町に息づいています。








































